おもいだしたこと
2003年8月26日今日はこひつじを連れて実家へいってきた。
っていうか我が家の前まで母が車で迎えにきてくれたのだが。
もともと少し過保護では?と思うトコがあったのだけど、こひつじをうむとき色々あってさ、一歩間違えたら死んでたかもしれないポーによけい過保護になった気がする。
確かに救急車なんて生まれてはじめて乗ったけどさ。
でも「苦しい」という自覚症状がなかったからさ
看護士さんや産科の先生。大慌てでかけつけた両親やパパひつじが慌てている姿をぼんやりみてたさ。
通っていた病院から急遽大学病院に搬送される救急車の中のことも覚えているよ 同乗した看護士さんとパパひつじの深刻な会話も聞いてた。
救急車の中では顔に布をかけられていたんだ。
激しい光は病状に良くないらしくて。
あの日も今日みたいな曇天でほんの少し肌寒い日だったよ
34週と5日という早産だったのにもかかわらずこひつじは2500gを超えていた。
生む前の説明で、執刀医の先生から「週数が早いし2300gあるかどうか・・・。早く生まれると体の機能が整っていない場合がある」と聞かされていた。
早く生むことのリスクを延々と聞かされたってポーの体の具合は時間を追うごとに悪くなっていく。
ポーの容態が悪くなればなるほどおなかの赤ちゃんに影響がでてくるんだって。
私、聞いたんだ、先生から。ポーの命より先におなかの赤ちゃんの命がなくなるって。もっといろいろ説明されたよ。でもなにをきかされたって選択肢はひとつしかなかったのだもの。
あの日おこったすべての出来事を承諾するしかなかったポーがたったひとつだけ執刀医の先生にお願いしたことがある。
私はどんなことも我慢できます。痛くても傷が残ってもかまいません。私の命と引き換えでもいいです。だからおなかの子供の命を救って下さい。私のことよりおなかの子供のほうを優先してください、と。
緊急手術だったし出血量が多い場合の輸血は、他人の血に頼るしかないわけで。
そうすると、時々ニュースでながれるように「感染」のリスクが全然ないとはいいきれないわけで。でも不思議。そういった「感染」や「死」、「痛み」への恐怖ってあのときは全然無かったんだ。
歯医者さんの治療の時は、痛いのが苦手で麻酔が無いと治療できない人間なのに。不思議だね。
執刀医の先生は一瞬無言になったあとこういったよ。二人とも助けますって。
腕のいい先生だったらしい。出血はごく少量ですみ輸血はしなかったんだ。
局部麻酔だったから頭はハッキリしていた。
以前、両親学級で呼吸法を学んだときこんなことをいわれた。「お母さんも痛いし苦しいかもしれないけど生まれてくる子はもっと痛いし苦しいんだよ。でも無事生まれてこようとがんばってるんだよ。お母さんがそのときできる一番のことは、がんばっている赤ちゃんに酸素を送りつづけることだけなんだよ」って。
それはあくまで普通分娩の場合だけかもしれない。カイザーに呼吸法が必要かどうか、医学的知識のない私には全然わからない。でもすべて執刀医の先生まかせで何もできない無力な母ができる唯一の行動は、へその緒を通じてつながっている我が子に酸素をひたすら送りつづけること、それだけなんだ。
あとは無事生まれてくれるよう祈りつづけるだけ。
どれだけ時間がすぎたのだろう。
オギャーっていう泣き声が聞こえ、少しして「元気な男の子ですよ」って看護士さんが顔の横へ赤ちゃんをつれてきてくれた。私は「ありがとうございます」っていうのが精一杯だった。悲しかったわけではないのだけど、気が付いたら涙がこぼれていた。
来月の9日であれから3ヶ月の時間がたったことになる。幸い一ヶ月検診も順調で、出産した大学病院の教授から「もうだいじょうぶ」とお墨付きをもらった彼はクベースに入っていたのが嘘のように元気に大きくなった。
小田和正の歌ではないが「あなたに出会えて本当によかった。うれしくて。うれしくて、言葉にできない」だよ。こひつじとのこと、これからきっともっともっとたくさん大変なことヤなことに直面する日もあるのかもしれないけど。
あの日のこと。私は絶対忘れちゃいけいんだって思う。
っていうか我が家の前まで母が車で迎えにきてくれたのだが。
もともと少し過保護では?と思うトコがあったのだけど、こひつじをうむとき色々あってさ、一歩間違えたら死んでたかもしれないポーによけい過保護になった気がする。
確かに救急車なんて生まれてはじめて乗ったけどさ。
でも「苦しい」という自覚症状がなかったからさ
看護士さんや産科の先生。大慌てでかけつけた両親やパパひつじが慌てている姿をぼんやりみてたさ。
通っていた病院から急遽大学病院に搬送される救急車の中のことも覚えているよ 同乗した看護士さんとパパひつじの深刻な会話も聞いてた。
救急車の中では顔に布をかけられていたんだ。
激しい光は病状に良くないらしくて。
あの日も今日みたいな曇天でほんの少し肌寒い日だったよ
34週と5日という早産だったのにもかかわらずこひつじは2500gを超えていた。
生む前の説明で、執刀医の先生から「週数が早いし2300gあるかどうか・・・。早く生まれると体の機能が整っていない場合がある」と聞かされていた。
早く生むことのリスクを延々と聞かされたってポーの体の具合は時間を追うごとに悪くなっていく。
ポーの容態が悪くなればなるほどおなかの赤ちゃんに影響がでてくるんだって。
私、聞いたんだ、先生から。ポーの命より先におなかの赤ちゃんの命がなくなるって。もっといろいろ説明されたよ。でもなにをきかされたって選択肢はひとつしかなかったのだもの。
あの日おこったすべての出来事を承諾するしかなかったポーがたったひとつだけ執刀医の先生にお願いしたことがある。
私はどんなことも我慢できます。痛くても傷が残ってもかまいません。私の命と引き換えでもいいです。だからおなかの子供の命を救って下さい。私のことよりおなかの子供のほうを優先してください、と。
緊急手術だったし出血量が多い場合の輸血は、他人の血に頼るしかないわけで。
そうすると、時々ニュースでながれるように「感染」のリスクが全然ないとはいいきれないわけで。でも不思議。そういった「感染」や「死」、「痛み」への恐怖ってあのときは全然無かったんだ。
歯医者さんの治療の時は、痛いのが苦手で麻酔が無いと治療できない人間なのに。不思議だね。
執刀医の先生は一瞬無言になったあとこういったよ。二人とも助けますって。
腕のいい先生だったらしい。出血はごく少量ですみ輸血はしなかったんだ。
局部麻酔だったから頭はハッキリしていた。
以前、両親学級で呼吸法を学んだときこんなことをいわれた。「お母さんも痛いし苦しいかもしれないけど生まれてくる子はもっと痛いし苦しいんだよ。でも無事生まれてこようとがんばってるんだよ。お母さんがそのときできる一番のことは、がんばっている赤ちゃんに酸素を送りつづけることだけなんだよ」って。
それはあくまで普通分娩の場合だけかもしれない。カイザーに呼吸法が必要かどうか、医学的知識のない私には全然わからない。でもすべて執刀医の先生まかせで何もできない無力な母ができる唯一の行動は、へその緒を通じてつながっている我が子に酸素をひたすら送りつづけること、それだけなんだ。
あとは無事生まれてくれるよう祈りつづけるだけ。
どれだけ時間がすぎたのだろう。
オギャーっていう泣き声が聞こえ、少しして「元気な男の子ですよ」って看護士さんが顔の横へ赤ちゃんをつれてきてくれた。私は「ありがとうございます」っていうのが精一杯だった。悲しかったわけではないのだけど、気が付いたら涙がこぼれていた。
来月の9日であれから3ヶ月の時間がたったことになる。幸い一ヶ月検診も順調で、出産した大学病院の教授から「もうだいじょうぶ」とお墨付きをもらった彼はクベースに入っていたのが嘘のように元気に大きくなった。
小田和正の歌ではないが「あなたに出会えて本当によかった。うれしくて。うれしくて、言葉にできない」だよ。こひつじとのこと、これからきっともっともっとたくさん大変なことヤなことに直面する日もあるのかもしれないけど。
あの日のこと。私は絶対忘れちゃいけいんだって思う。
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